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徒然なるままに日暮らし,よしなしごとをこっそり書き捨てるものなり。
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中根千枝「タテ社会の人間関係」
これは凄い。
社会人類学の視点からの日本論の古典。
古典と言っても,難解でも古くもなく,非常に読みやすく論旨も明解で,なにより現代日本の社会の様子をよく説明できるのが凄い。ずっと読み継がれているだけのことはある。
これは日本論ではあるが,社会の人のつながり方にはヨコ方向とタテ方向があり,どちらが優勢であるかで社会の在り方が大きく異なるというのが,本論の趣旨であって,タテつながりがヨコつながりを優越している社会として日本がまさに典型例として示されている(ヨコのつながりが優越する社会としては,しばしばインドが例にされている)。
それ以前の文化論では明解に指摘されていなかった,人間関係のタテとヨコという視点を初めて示したのがこの著者である。

40年以上前に書かれているのに,日本の会社経営におけるケイレツとか派閥の問題とか,スクールカーストの問題とか,今の社会問題を理解するのにそのまま使えるというのが凄い。
ユニバーサルな社会論だと言える。
ここでは,文化も社会の在り方に規定される部分が大きいとして,文化心理学につながっていくような視点も既に見られる。
著者の論点からは外れるので,人々は社会の仕組みに応じて反応しているだけで,社会の仕組みの違いを反映して人々の行動が違っているのが文化差に見える,というところまでは議論が進んでいない。
ここから,その文化差を内面化しているとなると文化心理学になっていくし,文化差を環境と捉えているとするとマイクロマクロの議論になっていくわけだが,40年も前の社会人類学がこういう視点で社会を見ていたとは。
学術研究の世界もタテに狭く深いつながりで,他分野とのヨコの連携があまりないから,ほんとはもっと他分野に目配りしていくのが望ましいんだろうが。
ただ,そういうのは研究者が個人的にやっても学問の統合ってことにはなかなか繋がらないんだと思う。
安西裕一郎の「心と脳 -認知科学入門-」で,認知科学という学問領域が1960年代に生まれた時,同時期に物理や数学や生物など様々な領域で同じような問題意識を持つ研究が行われてそれが統合されていったというのを読んで,エポックメイキングというのは,時代が用意するのだなあと思った。
竹沢尚一郎の「社会とは何か -システムからプロセスへ-」でも,”社会”という概念が生まれるに至った17世紀中頃,ちょうどヨーロッパの各国で思想家が出たり戦争や革命が終わったりするのが数年という短い間に揃っていたりするのを読んでも,やはり時代が用意するのだと思ったし。
まあ,だからって時代にお任せしとくだけでもダメだと思うけども。
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「ふしぎなキリスト教」大澤真幸と橋詰太三郎の対談
対談形式は好きじゃないので,あんまり読まないのだがこれは面白かった!
どちらも大御所社会学者だから,小難しいかと思ったけど,対談なので良い感じに分かりやすくかみ砕かれている。
いろいろと知らないことが書いてあって面白かったのだけど,キリスト教やイスラムの聖典がどうしてあんなに細かい戒律で溢れているのかというのが一番納得できて私には面白い発見だった。
ひとつの文化を支える宗教を持った民族が,国という塊を失って世界に散り散りバラバラになったときに,それでも人々が固有の文化を忘れずに100年200年と生活習慣を保ち続けるには,あの細かい生活規則が必要なんだということらしい。
例えば日本人では,お正月には初日の出を見て,お参りに行って,着物を着て親族や近隣の人々と新年の挨拶を交わし,おとそを赤か黒の漆塗りの猪口で飲みおせちはどういう材料でどういう重箱にどんな順番で入れ,三月にはどういう手順でおひな様を出しどういう料理を食べ,五月には鯉のぼりや五月人形を飾り道明寺や柏餅を食べ,夏には浴衣を着て花火をやって,結婚式にはどうたら,葬式にはこうたら・・・というのがいちいちすべて決まっていれば,確かに生活習慣として日本文化が失われることはないだろう。
でも,こういう細かい規律を聖典に盛り込むという発想は,国を追われて散り散りになるという運命に遭った民族でないとなかなか出てこない。
だから,最初にこういう戒律を細かく決めた聖典を作ったのはユダヤ民族だった。それを発展させる形でキリスト教が出来たけど,キリスト教はユダヤ教の進化系というよりは二部構成(だから旧訳聖書と新訳聖書がある)で,ユダヤ教の上にその発展系を乗せました,という形になっている。イスラームは,ユダヤ教とキリスト教のいいとこどりをして出来ている洗練された宗教で,聖典もひとつに統一されている。
そして,その系統にのってない,民族が散り散りになったり,そういう脅威にあったことのない日本人には,そういう伝統的生活習慣を守るための聖典を持つ必要がなかったというわけだ。
なるほど。

まあ,そういう聖典がないせいで日本文化にはいろいろ忘れられている行事とかしきたりとかありそうだけど。

まあカレー嫌いだっていう人はあまり聞いたことない。少なくとも身の回りでは。
で,最近はタイ料理屋のグリーンカレーに大はまり中。
平日5日のうち,3回はグリーンカレー食べてる気がする(残りは前に書いたテイクアウト専門のサラダランチ)。
鶏肉とごろごろとでっかいナスが入ってて美味い。そしてかなり本気で辛い。
ご飯の量が多めなのが難点だが,帰りに二駅くらい歩けばいいか。

こないだ札幌ステイだったので,ピカンティ行ってきた。あそこもいつも辛くて美味い。ちょっとひよって4辛にしちゃったが。
胃腸が辛さにあまり強くないのか,マジスパの虚空とか陳麻婆とか食べると,体調によってはその後腹が痛くなるので,出張中はちょっと辛さに弱気にならざるを得ない。残念だ。
そういやインドカレー屋も最近すごく数が増えてる気がする。
本格的なナンが食べられるお店が多くなって嬉しい。昔はわざわざ電車を乗り継いで行くとかしてた気がするので,大変有り難い。
カレー屋でのんびり飲みたい,できれば昼間にww
昼間に飲みたいと言えば,丸の内オアゾ1階にパニーノジュストが入っているので,いつか午後休とって,昼間から生ハムとチーズをつまみにスプマンテ飲んでやろうとたくらんでいるのだが,実現する日は来るのだろうか。

なんかこのブログ,食べ物の話か読書メモしかないって,生活内容が知れるな。
なんか違う話。。
そうだ,久しぶりにホームメイド家族と乙三を聞いて,やっぱイイ。すごく元気出る。
なぜか仕事でキリキリしてる時にエンドレスで聞くことが多いけど,馬力出してもうひと頑張りしますか!!!って気合いが入る。
最近新しいアルバムでなくて寂しい。。。

「日本の殺人」は読み進めているうちに,上から目線が気にならなくなり,実際の治安は以前よりもずっと良くなっているのに,人々の犯罪被害者になりそうだという不安は高まってきているというパラドクスはなぜだろうか,とか裁判の仕組みとかいろいろ面白い内容になって,読後感は良かった。
私が「上から目線」と感じたものは,法律屋さんの書き方の特徴なのかも。
コンプライアンス関連で著書の多い郷原信郎の本も同じような感じを受ける。
それより,裁判というのは真実を明らかにするところではなく,集めた証拠の認定をしてそれに対応する刑を決めるだけだという説明が分かりやすくて,かつ,そういうもんだったのか・・・と勉強になった。
誰が何を思って具体的に何をしたのかをつまびらかにするのが裁判だというイメージだったけど,確かにそれは現実問題として難しい。技術的にも社会効率的にも。
連続殺人犯が何人をどういう手口で殺そうと,そのうちの2件くらいを証明できれば死刑になるから,死刑以上の罰がない以上,多くの関係者が時間と手間を掛けてそれ以上の証拠を集めて認定しても判決は変わらない。だから死刑判決に必要十分なだけの証拠の認定しかしない。
合理的だ。
もちろん被害者の遺族は納得いかないだろうけど。

「つながり」の精神病理(中井久夫著)は,タイトルだけ見て今はやりのSNSとかで繋がってないと不安な若者の話かと思って買ったら,オーソドックスな家族のつながりの話だった。キャッチーなのものではなく,(主に)家族の精神病理に関する真面目な。
結構古い講演とかも収録されているのだが,基本的に今でも普通に通用する。
これは筑摩文庫で,もとは岩波から出てた著作集を再編したものらしいけど,筑摩文庫は哲学とか宗教とか精神病理学とか強いよね。

今読んでいる「日本の殺人」。河合幹雄著。
著者は法社会学者だそうだが,この名前はユングの弟子で心理学の大家だった故河合隼雄の子供だろう,どう考えても。と思ってぐぐったらwikiに出てた。やっぱりー。
で,中身は淡々と統計資料に基づいて殺人の分類やその刑罰などを説明しているのだけど,なんというか,本当にものすごく淡々としている。
これって法律の専門家の特徴なんですかね?(一部弁護士のぞく
しかも「上から目線」が凄い。淡々と上から目線。それも,色味のない感じで。
変な例えだけど,生まれたときから家に召し使いとかがいて,朝起きたら部屋が暖めてあるのが当然とか,背中を洗ってくれて当然,とかいう類の人が持っているような,全然別種族というか決して交わらない対象を淡々と見てる感じの上から目線。
学者の書くものって基本的に淡々としてるのが多いから,それはごく普通にありなんだけど,上から目線を隠しもせず,それを自覚もしてなさそうなのが凄い。
学者の本でも上から目線の記述があることはあるけど,それを隠そうとしたり少なくともフォローを入れたりするものだけど,そういう素振りが一切ないのがいっそ清々しい。
そういう書きぶりがイヤだとかそういう意味でなく,単純に驚いた。

同じ学者が書いた本でも「害虫の誕生」は面白かった。
害虫の研究なのに,古文書とかから昔の社会では虫とどう付き合ってきたのか,ということを丹念に掘り起こす歴史とか文化人類学とか考古学みたいになってる。
大昔は,虫は迷惑な存在だけど,害虫という定義ではなくて神の怒りの現れだとか(台風とか地震と同じような)自然災害だと思われて,神社のお札とか祈祷でなんとかしようとしてたとか,親が卵を産みそれが孵化して増えるのではなく,なにもないところとか,湿気から自然発生すると考えられてたとか,いろいろ知らないことが満載で面白い!!
そして,ゴッキーは近代までメジャーな存在ではなく(家に食べ物が貯蔵されてないから家の中に住み着かないし,もし家にいても暖房が十分でないので越冬できない),裕福な家にしかいない虫だったそうだ。
理由を言われてみれば,そりゃそうだと納得。
だから,「♪ コガネムシーは金持ちだー,金蔵たーてた蔵たてたー」の歌のコガネムシとは,今のあの昆虫ではなく,ゴッキーのことなんだそうだ。
おおお,しらんかった。
・・世の中には,いろんな研究者がいるもんだ。